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【会報/新連載】舞台裏より愛をこめてvol.1 / 小笠原尚子 / n°290

*このコラムは、日本人会会報290号(7月8月号)に掲載されたものです。

「よし、じゃあ君たちは巴里へ行きなさいよ」
と、“心優しい旦那サマ”による鶴の一声で2014年、わたくし共親子三人は犬二匹と共に、寝袋と蝋燭を詰めたスーツケースを転がしパリへとやって参りました。
パリに降り立ち紆余曲折の7年目を迎え、この度有り難くも、日本人会さまよりこうして執筆の機会を頂戴致しました。これから綴りますことは、ややもすると身内の恥を晒すもの、冒頭に登場致しました“心優しい旦那サマ”の“封建的思考”があらわとなる暴露エッセイになってしまうかもしれません。が、彼の一言で日本社会のレールから大きく外れましたわたくしども一家、その体験談や、夫婦間のいざこざが、少しでも笑いの種(⁈)になりましたら、との思いでしたためたく…。よろしくお付き合いの程賜れましたら幸いでございます。
さて先ずは“心優しい旦那サマ”のご紹介を最初にしておきませんと、ご本人からクレームが付きそうでございます故…ここで少し家族について。
わたくしの愛してやまない旦那サマ、主人、夫、ボス、シェフ…ここはフランス風で“モンマリ”と参りましょうか。(当人の尖ったご性格が鞠のように丸くて可愛らしい印象になりそうなんですもの‼)そのモンマリは、加賀前田藩御抱え狂言方野村万蔵家(在東京)の一門として、関西支部代表を務めます小笠原由祠(旧 匡・ただし)と申します。人間国宝 野村萬、故八世野村万蔵、九世野村万蔵に師事し“能楽師狂言方和泉流”と云う肩書きにて、日本国内外を舞台に狂言の伝承・普及に努めております。子は一姫二太郎、破天荒な両親を横目に現在、娘は京都にて、息子はパリにて、粛々と大学生活を送っており、次女・三女のトイプードル2匹、そして本年半世紀を迎えましたわたくし、と云う家族構成になっております。
そのモンマリが狂言の道を志したのは18歳高校在学中のことでした。能楽業界ほとんどの“お家”が古くより代々続く“由緒あるお家柄”であります中、サラリーマン一般家庭からの入門者は当時大変珍しく、厳しいしきたりや修行に耐え抜くためにはそれなりの気骨が必要でした。門閥外からの入門を果たして以降38年現在に至っておりますので、モンマリの頑固さとトンガリ度は筋金入り、生まれ持っての性質と分析しております。その性質の築かれた環境によるものか、あるいは長らく身を置いていた古典業界の影響によるものか、はたまた“形・型”から入る傾向のある彼の性格からか、新婚当初より当家はかなりの封建的家族でありました。この数年でモンマリの性格が少〜し丸くなって参りましたことを受け、“封建的家族であった”と、ここは敢えて過去形に致しましょう。何せ当初の様に封建的家族真っ只中でなければ、家長のひと声で渡仏に至る等とは考えにくいこと、よく云えば日本の古き良き時代の典型家族、家長の言葉は絶対的権力を持ち、男女不平等などと云うものは当たり前、ちょっと口を挟もうモノならオンナコドモは黙ってろぃ!の環境でありました。

そんなコテコテ古典モノの口から、何故パリへと…?それは、モンマリの溢れんばかりの“パリ愛”によるものからでした。彼の“パリ愛”は相当で、口を開けば「パリへ行きたい」それが「老後はパリに住みたい」→「パリで狂言の普及活動をしたい」→「老後じゃ遅すぎる」→「お前たち先に行け」と、このような変革を遂げた訳でございます。
では何故モンマリはそこまでパリを愛するのか?簡単に云ってしまうと“修行中の彼が生まれて初めて飛行機に乗り、狂言ワークショップの為、師に連れられ訪れた場所がパリであったから”なのです。生まれたてのひよこが初めて見た動くものを親と思い後を追う“刷り込み”のように、“パリは素晴らしい”が25歳の彼にすっかり刷り込まれたのでした。その刷り込みは“パリの街並みが美しい”“パリジャンが素敵”“バゲット&チーズがンマイ”と云うだけのものではなかったようです。折に触れ披露されるモンマリの“パリ愛”語りぐさをこちらにも記したいと思います。“ぼくのパリ愛”ー「それは折しも湾岸戦争勃発の時。多国籍軍がイラク空爆を始めたその頃、ぼくは先生(故八世野村万蔵師)とオペラバスティーユの天井桟敷で『フィガロの結婚』を観劇していました。その上演中に“多国籍軍によるイラクアタック反対”を唱える反戦デモの群衆が劇場に雪崩れ込み、ついに群衆の“カシラ”が舞台上に登りました。日本だったら即上演中止、その前に群衆入場を阻止されますよね。でも群衆の行動が阻止されることもなく、また、まわりの役者達は芝居を続行していて。程無く“カシラ”が勢いよく中央の椅子にドカっと座り込み、血糊のついた骨型石膏を振りかざしながら“アタック反対”のビラをばら撒いたんです。すると、役者達は一斉に“カシラ”へ目を向けるや否や「こいつは誰だ⁉」と口を揃えて叫んだんですよ。その光景に観客は “ブラボー‼”と大喝采、ぼくはもう「なんじゃこりゃーーー!!」の鳥肌もので…」
芸術と政治の融合、強い主張と表現の自由、緊迫の中にもエスプリの効いたそのインプロヴィゼーションにすっかり心酔してしまい、以来、パリにゾッコンと云う訳なのです。更に湾岸戦争を機に狂言ワークショップへ来なくなってしまったスタージェとのやり取りもかなりカルチャーショックのようでした。当時兵役のあったフランスで該当年齢だったスタージェから「このまま戦争が続けば、僕は戦地へ赴かなければならない。そうしたら、もう君とも会うことが出来なくなる」と塞ぎ込んだ様子で胸の内を明かされ…平和の国からやってきた彼には生と死が隣り合わせの、この状況があまりにも衝撃的だったのでした。斯してモンマリに刷り込まれた“パリ愛”は年々深まり、ついに「よし、じゃあ君たちは巴里へ行きなさいよ」の御発令に至ったという訳です。
身を置くところの環境、というものは実に重要なこと、人生を左右するものでございます。パリでの暮らしを通して、思考、行動、夫婦の在り方、家族のパワーバランスが見事に変化致しました。リベラル且つ愛と思いやりの塊とも云える両親の元に生まれ育ちましたわたくしは、いつしか当初の家庭内封建制度に限界を感じ、実のところ子供達を連れ実家へおイトマを、と考えておりました矢先の御発令、期せずして図らずも、モンマリの元を離れパリへと云う別居生活、もとい、遠距離恋愛生活の形をとることと相成りました。
“愛を込めて”のはずが、vol.1から早速の恨み節をご披露してしまいましたことご容赦願いつつ…
本日はこの辺で。
平和への祈りを込めて。

小笠原尚子(おがさわらたかこ)プロフィール
“やんちゃ狂言師の裏方古女房” 東京生まれ。神戸→名古屋→横浜→佐渡ヶ島育ち。故八世野村万蔵主宰“わざおぎ塾”にて学生時代に演劇を勉強中、狂言師小笠原匡と出逢い1996年に結婚、伝統芸能の世界に入る。その後、大阪生活を経て2014年よりパリ在住。現在、パリで狂言普及活動の傍ら、自らは役者業を再開⁈
(このエッセイでは、日仏文化体験を通し、狂言師一家の四半世紀を振り返ります)

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