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【会報/連載】舞台裏より愛をこめてvol.2 / 小笠原尚子 / n°291

「お二人の出逢いはどのようにして?」
と、よく頂戴致しますご質問。「どうして出逢っちゃったんでしょう。」と、つい即答してしまう今日この頃。「地球上のシロナガスクジラよりも数少なく絶滅危惧種の上ゆく狂言師さんとどのようにして出逢うものなの?」確かに想像するに容易くないところでございます。
“パリ愛溢れる心優しきモンマリ”(vol.1より)との出逢いは、今から遡ること30年。当時大学2年生でありましたわたくしは、学業と並行して幼い頃より興味を抱いていた演劇について学びたいと思い、芝居の学び舎を探していました。紆余曲折あり最終的に辿り着いたのが“わざおぎ塾”でした。“わざおぎ”は“俳優”の意で、塾の主宰者は野村耕介氏(能楽師狂言方和泉流故八世野村万蔵師)。入塾には課題作文『東洋と西洋の演劇の共通点と相違点』提出と、面接試験突破の必要がありました。
試験当日の会場でありましたわざおぎ塾稽古場の扉を開け恐る恐る覗き込むと、黒いソファに腰かけたひとりの男性の横顔が見えました。相手もこちらに気付き「こんにちはー」とやや営業スマイルでのご挨拶。随分と色の白い、小ぶりな瞳の男性だこと、と自身の小粒な目を棚に上げながら彼の手元を見ると、破けた合皮靴をよった糸で懸命に縫い合わせていたようで。一体この方は?と思いつつ、その後野村先生との面接を経てわたくしの願は目出度く成就、晴れて“わざおぎ塾”一期生として演劇を学ぶことになりました。そして、由緒ある野村家へ門閥外から入門し、内弟子修行中、年季の入った靴を履き、師の鞄持ちをしていたヒト科絶滅危惧種さんとの遭遇はこのような具合でありました。

(写真)耕介師のお誕生日会にて

さて、当時32才でらした野村耕介師は、22才時にイタリアで開催された“ISTA”(国際演劇人類学学校)の学会に参加され、ISTA創設者の作家、演出家でもあるエウジェニオ・バルバ氏に大変な刺激を受けられたとのこと、そこから10年、満を持して“わざおぎ塾”開塾に至ったようです。また、同じく学会に参加されていたマスケラー(面作家)のエラール・シュティフェル氏の招きで、この年の初めにはパリのカルトゥシュリーで狂言スタージュを開催、代々続く狂言のお家の方でありながら、師の視線はいつも海外に向けられていました。演劇概論では師の類稀なる外国での経験を聴かせて頂きました。パリ東部ヴァンセーヌの森のカルトゥシュリーにある太陽劇団演出家、アリアンヌ・ムヌーシュキンの作品について、北駅近くブッフ・デュ・ノール劇場で上演されたピーター・ブルックの演出について、他にも“ジャン・コクトー”“サミュエル・ベケット”“マルセル・マルソー”“ジャンルイ・バロー”“ジャック・ルコック”“フィリップ・ジャンティ”“ジェローム・ドゥシャン”“ジンガロ”“バスター・キートン”等々、ホワイトボードに並ぶ演出家と俳優陣名カタカナの多さに目がくるくる回る時もありました。
時は流れ塾卒業時「私は男性で無い為、狂言の舞台に立つことは叶いませんが、先生の弟子として何をしましたらお役に立てるのでしょうか?」とお尋ねしましたところ「じゃあフランス語勉強して。何れ必要になるからさ。」とのお返事。フランスにて今後の舞台活動を念頭に置いてのお言葉でした。その時は、まさか44才と云う若さで逝ってしまわれるなどとは思ってもみず…。仏語の勉強は細々と、恥ずかしいくらいに細々と続けてはおりますが、天からお叱りの声が聴こえてきそう。なんとかせねば…本日はこの辺で。
平和への祈りを込めて。

小笠原尚子(おがさわらたかこ)プロフィール:
“やんちゃ狂言師の裏方古女房” 東京生まれ。神戸→名古屋→横浜→佐渡ヶ島育ち。故八世野村万蔵主宰“わざおぎ塾”にて学生時代に演劇を勉強中、狂言師小笠原匡と出逢い1996年に結婚、伝統芸能の世界に入る。その後、大阪生活を経て2014年よりパリ在住。現在、パリで狂言普及活動の傍ら、自らは役者業を再開⁈
(このエッセイでは、日仏文化体験を通し、狂言師一家の四半世紀を振り返ります)

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