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【27】 ブルボン公爵家の街ムーラン(Moulins)とアンヌ・ド・ボージュー / n°283

アンヌ・ド・ボージュ―は15世紀後半、ヨーロッパで最強の女性と言われた人です。ルイ11世(1423-1483)と王妃シャーロット・ド・サヴォワの第1子として誕生しました。彼女には妹ジャンヌ(オルレアン公ルイ、後のルイ12世と結婚、離婚)、そして弟シャルル、後のシャルル8世がいます。

アンヌは1461年生まれ、幼少のころから賢く誰にも劣らない頭脳の持ち主で美しい女性に成長していきます。特に政治に対する聡明な判断力を持っていました。それを見抜いた父王は自分の死期を感じた時、まだ若年だった息子シャルル8世の摂政をアンヌに委ねます。
アンヌはブルボン公ジャンの末弟ボージュ―の領主ピエールと1474年に結婚します。アンヌ13歳、ピエール35歳でした。彼女はアンヌ・ド・ボージュ―と呼ばれるようになりますがアンヌ・ド・フランスとも言われています。1488年ピエールは兄が死ぬとブルボン公家を継承しピエール2世と名のります。フランスの太陽王ルイ14世の祖にあたるブルボン家は、10世紀にカール・マルテルの子孫と言われるアデマールがブルボネーの地、ブルボン・アッシャンボ―に城を築きその名にちなんで自らの家名をブルボンと称しブルボン家の祖を築きました。
13世紀、ブルボン家の継承者である娘のベアトリスと仏王ルイ9世(聖ルイ王)の末息子ロベール(Robert de Clermont)が結婚し4男4女を儲けます。長男のルイは王家と同盟関係を結び、王への奉仕として自軍を派遣しブルボン家の地位向上をめざします。更に国王シャルル4世の忠実な武将として王に貢献したルイは1327年に、公爵の称号を与えられ、初代ブルボン公ルイ1世となります。この時からムーランがブルボン家の首都となり繁栄していくことになります。

イギリスとの間に起こる百年戦争(1337-1453)の間、ブルボン家はヴァロワ家の外戚有力諸侯として王家を支えていきます。1461年に国王シャルル7世が没し、息子のルイ11世が即位すると近隣の大諸侯の権力を減殺することに力を注ぎ、至る所に網をはり陰謀をめぐらしながら、領土を併合し、父王の中央集権化政策を引き継いで、百年戦争で荒廃したフランスを統一させるのに努力します。1483年ルイ11世が亡くなると13歳のシャルル8世は宮廷をアンボワーズ城に置き、姉のアンヌとその夫ピエールが摂政として後見します。

しかしルイ11世が没するとすぐにオルレアン公ルイを中心とした諸侯達は若年王の統治権をめぐって対立します。アンヌは諸侯達から自らの摂政権を守る為に三部会を開き自分が摂政であることを周囲に認めさせます。アンヌにとっては夫ピエール2世の協力を得られたことも幸運でした。彼女自身が21歳と若かったにもかかわらず父王の期待通りの力を発揮します。
摂政になったアンヌはオルレアン公ルイの力を抑えた後ブルターニュに目を向けます。ブルターニュ公国はそれまでフランスの強力な諸侯と対立しながらも常に独立を保持してきました。公爵フランソワ2世は英国と手を結び仏王家を牽制しようと計り、またハプスブルグ家と結び東西からフランスの勢威を抑え込む政策をとり、唯一の後継ぎである娘アンヌが9歳の時にハプスブルク家のマキシミリアンと結婚の約束をさせます。しかし摂政アンヌがこれを黙認するはずはなく1486年にフランス軍を進軍させ、ブルターニュ公フランソワ2世はフランス王軍に大敗し亡くなります。アンヌはブルターニュ公国の後継者アンヌ・ド・ブルターニュを弟王シャルル8世と1491年に結婚させることに成功し、ついにフランス王に屈しなかったブルターニュ公国がフランス王家に統一される道を歩み始めます。

シャルル8世は王妃アンヌ・ド・ブルターニュを愛し姉アンヌとブルボン公ピエール2世を政治から遠ざけるようになり、成人すると自分で親政を行うようになります。ブルボン公夫妻はムーランに戻り、ブルボン公国の運営に専念することになります。この15世紀末、ムーランは文化、芸術において黄金期を迎えます。弟王シャルルがイタリアからもたらしたルネッサンスがムーランでも芽吹き始めます。彼らは芸術家を庇護しムーランの街の改造を始め城の増築、修復などをを行います。その頃ムーランの城館に画家ジャン・エイ(Jean Hay)が迎えられています。彼はブルボン公爵夫妻によって「ムーランの三連祭壇画」を依頼されます。別名「ムーランの画家」作と呼ばれるこの作品は15世紀末を代表する名作と言われるもので現在ではムーランの大聖堂に保管されています。この作品を見に行くだけでもムーランに行く価値があるでしょう。
ムーランはパリから東東南に292km丁度フランスの心臓部にあたります。かつてのオーヴェルニュ地方アリエ県で今では静かな地方都市になっていますが、中世の街並みも残り、かつてのムーラン城の跡を利用して造られたアンヌ・ド・ボージュ―博物館や大聖堂そしてコメデイーフランセーズやオペラ座で利用された衣装を所蔵する国立舞台衣装センターなどがあり日本人には知られざる興味深い街です。
(筆:宮永佳子 フランス公認ガイドコンフェランシエ )

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