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【特別連載】パリの画家たち/ 出合いとものの見方の転換 / 高僧 光隆 / n°285


2020年9月家の庭にて

わたしが20代の後半、出光美術館で「アンドレマルローと永遠の日本」という回顧展があった。それは、時間、空間を縦横無尽、奔放に飛び回るマルローの文化思索・思考方法を表す通常と異なる展示のものだった。今も印象的に覚えている二つ(四点)の展示がある。セザンヌの川の風景の作品―それは油絵具使用だが水彩画風の未完のものだった―と日本の那智の滝の図の2点を隣同士に、その横の壁面には藤原隆信作と伝えられる源頼朝像とマネの黒い服を着たベルト・モリゾの肖像が対峙するよう並べて展示されていたものだ。この展覧会の3,4年前よりわたしはマルローの「空想美術館」を夢中で読んでいた(もちろん日本語訳)。その回顧展はマルローのものの見方を具体的に目にしているように感じた。セザンヌの作品からは自然を前にし、目に映り、感じるある崇高なものを表現しようとしたのだろうかと思った。そしてその思いで那智の滝の図を観た。この二つの対峙された風景画で受けた不思議な思いは今も未解決のまま胸にある。何を選択、抽出するかというところで異なってくるということだろうか。源頼朝像とベルト・モリゾの肖像の対比は異なる時代と国、文化、そして作者の人の見方、捉え方の相違、位相をまさしく見せてくれるものだった。源頼朝像をわたしは驚愕を持って観た。初めて人間観、世界観、歴史、時間の相違というものを思い、考えた。
「空想美術館」とこの回顧展はわたしのものの見方に大きな転換を与えてくれた。
ものの見方、こころの転換はあるものとの出会い、遭遇において、決して大げさなものでなく、ごく自然に、簡単に、そして即行われるものであるということを実感し、知った。今もその時のこと、自身の心が、何かが動いた、回転したことを覚えている。それは仏道研修の行においてもあった。その転換は上記のものと同じ様相のものではない。またその動きは意識されて生ずるものではない。マルローさんによってわたしは日本、中国の絵画を、そして彫刻、建築を観るようになった。文化というものは生命を問題にしているものと捉えています。そして注意するようになった。芸術の「芸」の字、本の字は人がひざまずいて若木の芽が出てきた鉢を両手で持って眺めている姿とのこと。わたしは生命の成長を願う姿と受け取っている。

 

 

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