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【30】 キュリー夫人とラジウム研究所

ポーランドというと、一般的なイメージだとショパン、美人が多いなどを連想するかと思うが、私にとってのポーランドといったら断然キュリー夫人だ。世界で初めて放射能という概念を提唱した人物であり、夫のピエールと共に1903年にノーベル物理学賞を受賞し、1911年にはノーベル化学賞も受賞したことで知られる。そのキュリー夫人の記念すべき研究室が、パンテオンからほど近い所に、キュリー博物館として残っている。通りの名前も、ピエールとマリ・キュリー通り。敷地はパリ高等化学学校(ENSC)の隅に「パリ大学・ラジウム研究所」と書かれたこじんまりした建物がある。東大の本郷キャンパスにある建物のような佇まいだ。
キュリー夫人または本名マリア・スクウォドフスカ=キュリー(1867-1934)は、現在のポーランド出身の物理学者・化学者であった。フランス語名はマリ・キュリー。世界で唯一、複数の分野で2回のノーベル賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職にも就任した。ノーベル賞を家族で5個も獲得したという研究家一家だ。マリ自身、両親が教育関係者であったため、勉学に重きを置いた質の高い教育を受け、非常に優秀な成績で中等教育を終えている。ただ、当時のポーランドでは女性の高等教育の道は閉ざされていた。卒業当初は、すでにパリに留学していた姉の生活費を稼ぐために住み込みの家庭教師を3年間して支えた。そしてようやく今度は自分の勉強のために、フランスに渡ることができた。7階建てアパートの屋根裏部屋で生活しながら、昼に学び、夕方はチューターを務める一日を送った。生活費に事欠いて食事もろくに取らず、ストーブの燃料も事欠いて暖房もない寒い時には、持っている服すべてを着て寝る日々を過ごしながら勉学に打ち込んだ。ついには栄養失調で倒れて医師である義兄の面倒になったこともあったが、ひたむきに努力を重ねた結果1893年7月には物理学の学士資格を得た。1894年には夫となるピエール・キュリーに出会い、いずれはポーランドに帰ろうと考えていたマリに対して、ピエールの熱烈な気持ちが通じ、1895年に結婚した。以後、2人は共同で研究や実験を行っていくようになった。キュリー夫妻がラジウムを発見・研究するに至るまでは、いくつかの建物を引っ越しし続けた。今に比べれば劣悪な環境下で寝食忘れて研究に没頭したのだが、中でも、夫・ピエールの教職の場所でもあったパリ市立工業物理化学高等専門大学(ESCI)の実験室は、倉庫兼機械室を流用した暖房さえない粗末なバラック建ての小屋だった。

そして、1903年6月にはパリ大学から理学博士 (DSc)を授かった。1903年12月にはスウェーデン王立科学アカデミーは、ピエールとマリそしてアンリ・ベクレルの3人にノーベル物理学賞を授与する決定を下した。三人での受賞理由は「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」であった。こうしてマリは、女性初のノーベル賞受賞者となった。
さらに1911年にはノーベル化学賞が授与された。「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」として評価された。私がここで一番注目したいことは、当時ポーランドでは、女性の高等教育が認められず、せっかく来たフランスでも基本的に男社会であり、現在のような皆平等な教育環境での研究生活ではなかった中で、成果をあげたことだ。成果をあげてなお、当時ヨーロッパ社会では男女差別が普通に存在していた。ノーベル賞受賞にあたっても当初マリの貢献度はおろか、彼女の名前すら言及されなかった。マリのフランス科学アカデミーへの推薦が拒否されたこともあった。マリが女性であること、そしてポーランド生まれの外国人であることが理由と言われている。余談だが、夫亡きあとも色々と誹謗中傷もある中、研究に打ち込んでいたマリは、精神的に参っていたはずであるが、そんな時に励ましたのが、かのアインシュタインだったと言われている。
彼の優しさが大きな励みとなったに違いない。受賞後もマリは社会に役立つことを念頭に置いて研究を続けた。第一次大戦中は戦地で戦う兵士のために、ヴィルヘルム・レントゲンが発見したX線撮影設備を調えた。フランスには実施する設備が非常に少ないことを知っていたマリは、大学や製造業者などを回って必要な機材を調達し、複数の病院にそれらを設置した。その上、自動車に設備と発電機を搭載して病院を回り始めた。我々もかつてお世話になったことのあるレントゲン車だ。20台が作られ、時には彼女自身も車を運転し(免許証のような運転許可書も取得し)、各地の野戦病院を回り、負傷兵の銃弾を取り除くのに大いに役立ったという。最後にはシトロエン社から車の寄付を得るまでに至った。
キュリー博物館には、当時の実験室がそのままの姿で保存されている。マリが残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられていたが、現在は汚染除去が施されて公開されている。

 

 

(執筆 星野守弘 フランス国家公認ガイド)

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