【会報/連載】舞台裏より愛をこめてvol.5 / 小笠原尚子 / n°294
1996年の年明け間も無く、国立能楽堂にてモンマリ披キ公演→挙式→フランスへ移動→ランスでの狂言公演、と、怒涛の数日間を経て、師と共にパリ入りを果たしました私ども、次に課せられたミッションは“狂言スタージュ”でした。
パリ東部に広がるヴァンセンヌの森に位置する機関“ARTA”(Association de Recherche des Traditions de l’Acteur)にて、師はご多忙につきスタージュ開催期間のはじめ数日間を担当されご帰国、そのあとをモンマリが引き継ぐかたちで行われました。
ARTAの所有する建物は小ぶりな二階建てで、一階には事務室、資料の並ぶフォワイエ、キッチンと食堂があり、二階に稽古場スペース、奥には休憩部屋があり、我ら新婚夫婦はそちらに滞在し、通勤1秒、扉を開ければすぐに稽古場、という待遇。わたくしはもっぱら毎日、食事の支度、掃除、洗濯、買い出し、スタージュ記録用撮影に加え、稽古に熱が入るとつい声が大きくなるモンマリの監視役、という、所謂新婚旅行で連日上げ膳据え膳にルームサービス、という醍醐味は味わえずとも、それはそれで愉快な滞在となりました。ただ、近くにお店の無い立地、便利になりました現在とは異なり、いつ来るともわからないバスを逃せば一月の寒い中、片道2キロ余り、徒歩で食料を求めに行かねばならぬ状況下「今夜はイクラが食べたいから買ってきてよ!」とサラッと言ってのけるモンマリを少々恨めしく見つめ返したことを思い出します。(オット!この様に書きますと「2キロ程度で?!根性が足らん!!」というモンマリの声が聞こえてきそう!!)
スタージェールの面々は、我々とほぼ同世代の役者達で、師より“日本的”ご指導を頂くモンマリの有様に、やや慄きを隠せない様子でありました。フランスにも伝統芸能の継承、師弟関係というものはきっとあるのでしょうが、日本のソレとは趣も異なり、モンマリの担当になりましてからも暫くは皆緊張の面持ち、それでもそこは同世代、呑み食いをしながら互いの芸術、演劇感の意見交換を重ね、稽古中と稽古後でメリハリある、程よい師弟関係が生まれていきました。
足首の硬めな西洋人には苦行とされる正座から始まりました狂言スタージュは一ヶ月程続き、最終日にはお客さまを招いての発表会が。稽古を通して各自選んだ小舞を一人ずつ披露した後、トリに全員で狂言『茸(くさびら)』を演じました。
ある裏山にきのこが異常発生し、そこの主が山伏を招き、きのこ駆除の祈祷を頼むも、祈れば祈る程きのこが増えていってしまう、というお話。スタージュに太陽劇団の役者達が参加していたこともあり、来場されていた太陽劇団代表で演出家のアリアンヌ・ムヌーシュキンさんも、随分とお楽しみ下さいました。この時の通訳者はドミニック・パルメさん。日本文化、芸能に精通しておられ、それはそれは流暢な日本語を話される女性でいらっしゃいました。スタージュ後、しばらく連絡が取れずにおりましたが2015年に奇跡的な再会を…わたくし共のパリにおける活動の今日は、有り難くもこれらミラクルな出逢いにより支えられ救われております。
続きはまた次回と致しまして、本日はこの辺で。
平和への祈りを込めて。
小笠原尚子(おがさわらたかこ)プロフィール:
“やんちゃ狂言師の裏方古女房” 東京生まれ。神戸→名古屋→横浜→佐渡ヶ島育ち。故八世野村万蔵主宰“わざおぎ塾”にて学生時代に演劇を勉強中、狂言師小笠原匡と出逢い1996年に結婚、伝統芸能の世界に入る。その後、大阪生活を経て2014年よりパリ在住。現在、パリで狂言普及活動の傍ら、自らは役者業を再開⁈(このエッセイでは、日仏文化体験を通し、狂言師一家の四半世紀を振り返ります)
バックナンバー
舞台裏より愛をこめてvol.1 / 小笠原尚子 / n°290
舞台裏より愛をこめてvol.2 / 小笠原尚子 / n°291
舞台裏より愛をこめてvol.3 / 小笠原尚子 / n°292
舞台裏より愛をこめてvol.4 / 小笠原尚子 / n°293