会報 / 最新号コラムより
『パリで生まれた奇跡の日本野菜ー山下農道の神髄(日本経済新聞出版)』ー共著を書き終えて 岩本麻奈 / n°304
人類史始まって以来の地球規模パンデミックが、わたくしを故国に引き戻した。前世紀末からの20年間のパリ、それから3年余の熱帯のアセアン。戻ってみれば歌を忘れたカナリアながら、なんとか臨床復帰をした。過ぎゆく日々の喧騒と、祖国の温もりに似た安らぎが、遠い異国の日々の記憶、華やいだ『移動祝祭日』を侵食していく。
パリでの20年間に知り合った多くの人たちの中でも、山下朝史(やました・あさふみ)は少なからぬ影響をわたくしにもたらしたうちの一人である———この文章では客観性を維持する観点から敬称を略して記述する。パリの三ツ星レストランのキッチン近くで、彼の名を知らない人は稀である。出逢いは異国で耕す土と育てる野菜とのポエムからだった。農園主であって畑の詩人、野菜と語り合い野菜に育てられた男。農業者の哲人であるとともに、下ネタ語りの達人。どう考えてもわたくしとは異なる道を歩いているのであるが、奇妙にも共鳴を感じさせる人物であった。
YAMASHITAは大きなマーケットで大量の商品を売り買いするのではなく、中華料理と並んで「地球上にあるたった二つの料理」と称されるフランス料理の逸品となる野菜の生産者である。そうでありつつも、グランシェフたちと素材と味を討論して、彼らの望みを叶える物をつくって供給している。いわば期待の明星といった役割を果たしながら、生産高としては小規模生産農家に分類される存在である。
野菜栽培農家の星がつくり上げる、宝石のようなプチトマトや艶やかな蕪は、グランシェフたちを驚嘆させる。野菜たちの出自は日本産の種子である。それらが彼の持つ創造力と独自の育成ノウハウによって立派な野菜となる。一説によると、価格は市場価格の10倍。それでも人々が手を伸ばし、口に入れたくなる美味しさなのである。
友人としての山下朝史は、自らのたつきを農道と表現する。農道とは何かを訊ねると「わが子を育てるに等しい」と答える。これでは地味過ぎて理解するに難がある。わたくしはfarmer ethics(農業者の倫理)かと思う。となれば、天地への感謝ではないか!
わたくしはよく「独特の美意識を持っている」と揶揄される。ひょっとすれば「突破口」を発見できるかもしれない。職業柄というか、自分は美の世界に沈殿することが多い。食材の栽培や料理の中に美学を見出すこととは、恋愛や性愛における美学と変わることはないと思った。しかし、甘かった。幼児のままに生野菜嫌いを引きずっている自分にとって、野菜の美しさや植物の魅力に触れるのは大いなる挑戦だったのだ。好奇心は探求心を刺激し、農道の奥深い世界へと引き込んでいった。植物園や大学農学部、いろんな農業家との交流によって、部屋の中はいっとき、書物と植物に占拠されてしまった。
そうした結果生まれたのが、医者嫌いの山下と野菜嫌いの岩本との凸凹マリアージュ『パリで生まれた奇跡の日本野菜——「山下農道」の神髄』(日本経済新聞出版)となった。文体・文章は異なる。山下の文章は優雅で詩的であり、岩本の文章は科学的かつ分析的である。それらが混雑混淆して生じた成果は、ほどのよいカクテルとなって薫香を放つようになったのではあるまいか。それぞれの視点が交錯し、新たな視点を生み出すことで、読者に新たな視野を提供できれば嬉しい。あなたもその奇跡の共鳴を体験することができるかも知れない。パリジュンク堂、電子出版でもご購入可能。
岩本麻奈:皮膚科専門医。20年の在仏経験を生かして、比較文化、美容医学等、多岐に渡るジャーナリスト。現在は都内の複数のクリニックで、美容皮膚科と再生医療を専門に。睡眠とCBDに特化した『睡眠美容外来』を開設し話題になる。
<共著者紹介>
山下朝史は齢70歳の農家。43歳で小さな畑を作り、独学で農業を始める。日本の種で年間50種類ほどの野菜を生産。顧客はパリのガストロノミーの銘店。山下農園として各国のメディアで紹介され、現在は山下アカデミーの設立準備中。